2017.11.11

Interview

経営も、まちづくりも、身の丈サイズで

森川さん(前半後半がバトンを渡したのは、釜中悠至(かまなかゆうじ)さん。2010年から2016年まで開催されたまちびらきイベントオープン台地 in OSAKA(以下「オープン台地」)ディレクターとして、大阪の「右下」界隈の人にはよく知られた存在。しかし、それは釜中さんの一面に過ぎない。これから家を建てようとする人に家作りの基礎知識を伝える一般社団法人いい家塾の事務局や、お父さんから継いだ会社の経営者としての顔ももっている。「稼ぎ方」「まちづくり」をキーワードに、釜中さんにとっての右下的な活動について伺った。

人口減少時代の希望の持ち方

太田: 今回は森川さんからのバトンですが、どうして釜中さんをおすすめしたんですか。

森川: 僕らは2年ぐらい前まで釜中さんを筆頭に10人ぐらいで家賃をシェアして部屋を借りていたんです。「部室」と呼んでたんですが、「思いついたおもろいことやろうや」みたいな感じで、それがすごく楽しかったんですよ。そのメンバーは全員、右下っぽいというか。その「部室」の発起人が、釜中さんなんです。

釜中: マンションを普通に借りたら、空いてる時間がすごく長いじゃないですか。家族で借りても、二人とも働きに出たら、空いている時間がもったいないから、賃貸の空いている部屋を10人ぐらいで借りて、遊びや打ち合わせなんかで使ったら、24時間使えるんじゃないかなと思いついて。
人が寄ることで、いろいろと新しいことができるんじゃないか、とか単純に気の合う仲間とその空間でお酒飲むと楽しいよね、という話になったんです。

森川: 僕らの世代は、いわゆる不景気に就職しているので、お金を稼ぐことを評価の基準にしちゃうと、なかなか難しい。より儲けられる事が成功だと言われると、人口も減っている中で経済的には成長しにくいという感覚があるのに、それでも成長しないとダメと言われちゃうと、けっこう生きにくくなる。だから、コミュニティ寄りだったり、人とのつながりの中で何かしたりすることに価値があるっていうふうに見出さないとしんどくて。その右下っぽさという点で、釜中さんがぴったりだと思ったんです。


経営者、一般社団法人、まちづくり活動の3つの顔

釜中: 僕の主な活動を分けると3つあります。
その一つが「いい家塾」という家づくりの勉強会をやっている団体で、僕はここの事務局をしています。

お父さんの釜中明さんが創立。家づくりの勉強会だけでなく、家を建てる時に、工務店や材料選びのコーディネートや地盤調査や設計の監修もしている

全10回で土地探しから家の構造や材料、ローンや税制など家づくりに関する知識を一通り学べる。講義をするのは法律の専門家のほか、大工さんや設計士など、家づくりの現場に関わる人。山に実際に木を見に行ったり、木工ワークショップといった実技もある

釜中: この塾の背景には、戦後に建てられた住宅の寿命が短いことがあります。安いものを建ててしまったり、欠陥住宅を買ったりして後悔した人も多くて、そういう人をなくすためにやっています。
家って社会資産やと思うんですよ。それに、今は住宅が足りている状態なんだから、新たに建てるなら長期間保つようなもの、せめて自分が死ぬまでは保つ、そういう建物を作った方がいいと思うんですよね。

2つ目の活動が、「アイス」というコンサルタント会社の経営です。ただ、父が立ち上げた会社なので、しっくりこない部分もあって。これからは「木のある暮らしを提案する会社」というふうに変えていけたらと思っています。

創業者であるお父さんの釜中明さんは、奈良で材木商を経営、その後大阪でコンサルタント業を始める。一度は会社をたたんでサラリーマンになったものの、もう一回何かしたいと思い、60歳で始めたのがこの株式会社「アイス」

釜中: 例えば賃貸マンションに木を使った内装を取り入れることを提案していく会社にしたいなと。それはもしかしたら、ここここ的な右下的な活動ではなく、経済優先の右上の活動になるのかもしれないですけどね。
緑や木があると暮らしの中のぎすぎすしているところから、解き放たれたり緩和されるような効果があるんじゃないかなと思うんですよ。

「木が好き」というだけあって、事務所も中大江公園の真横! 緑が見えて気持ちがいい

釜中: 3つ目の活動がいわゆるまちづくり活動と言われている分野。このエリアでやった「オープン台地」というイベントの実行委員会の代表というものです。
お金稼ぎのためというより、新しいことを始めている梅山さん(前半後半みたいな若い人との出会いや、歴史やまちの資源の豊富さを改めて知ることができて、やっていて楽しかったですね。

——この地域とはどういうつながりが?

釜中: もともと僕は大阪市内出身者じゃなくて、和泉市という大阪の南の和歌山との県境にあるニュータウンで生まれ育ったんですよ。父の仕事の関係で高校生の時くらいに、桃谷あたりに家族で引っ越してきました。15歳の時から上町台地に住みだしたので、もう20年ぐらいになりますかね。

上町台地マイルドHOPEゾーン協議会
大阪市と大阪の企業、学校、団体が中心となった上町台地マイルドHOPEゾーン協議会が主催。釜中さんが事務局を務めるいい家塾も参加していた。

釜中: 2006年に主催団体の上町台地マイルドHOPEゾーン協議会が発足し、最初は、協議会のメンバー内の若手を中心に上町台地を盛り上げようとワーキンググループによるイベントをやって、3年目ぐらいの時に上町台地全体を使って何かしようということになり、2010年にオープン台地の第一回目が始まりました。
オープン台地が始まって3年目くらいから、森川さんはじめ同世代でいわゆる右下の枠に入りそうな人たちとの繋がりが増えていったかな。

——具体的にその中で釜中さんはどのような活動をされていたんですか?

釜中: 第一回目はディレクターが僕で、プロデューサーがアサダワタルさん。

第一回目のプロデューサーは『住み開き』『コミュニティ難民のススメ』等の著者で、福祉から音楽活動にわたって講師や企画演出担当として活動するアサダワタルさん。ちょうどアサダさんが、自宅をコミュニティづくりや文化活動の場として開放しながら暮らす「住み開き」を提唱し始めたころで、生活や働くこと住むことを鑑賞するという視点を入れて「生活鑑賞ツアーコレクション」となった

——アサダさんが大きな枠組みを作った中で、釜中さんがディレクターとして実際に現場の人と調整していったわけですね。一番大変なところですね。

釜中: いま考えたらよくやってたな、と思っています。気力も時間もあったし、楽しかったんだと思いますね。こういうこともできるんだとか。やったらやっただけ、お金じゃない評価もしてくれたし、活動全てがすごく新鮮でした。

——イベントがよかったとか?

釜中: そうですね。人とのつながりがあったからですよね。集まってくる人も自分もお金が最優先じゃなかったし。楽しそうにしているところって人が寄ってくるじゃないですか? 自分も楽しかったし、余所からみてもなにか面白いことやっているなと見えていたかもしれません。ここ行ったらなにか面白いことあるんじゃないか、という期待感もあったんじゃないかな、と思いますね。
という訳で僕は「いい家塾」と、「株式会社アイス」と「まち関係」の3つで生計を立てているという感じですね。

後半はこの3足のわらじをいかにはき分けているか、釜中さんなりの「稼ぎ方」「まちづくり」論を伺います。

後半へつづく

インタビュアー:太田明日香(取材日:2017年10月3日)

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