2018.02.09

Interview

ここここ|秋田光軌さんインタビュー(前編)

上田假奈代さん(前編後編)がバトンを渡したのは、「浄土宗應典院」の主幹を務める秋田光軌(あきたみつき)さん。

大阪市天王寺区にある應典院(おうてんいん)は、“葬式をしない寺”だ。では、何をしているのか? 演劇の公演、ワークショップ、展示、講演会、各種イベント・・・音響や照明の機器を備えた本堂ホール、さながら公民館や市民センターのような研修室、多種多様な文化的催しのチラシが置かれた1階ロビーには、アート活動や社会活動に興味関心を持つ人々が集う。ホームページでは《地域ネットワーク型寺院》と表現されており、NPO「應典院寺町倶楽部」の活動拠点でもある。

應典院という寺院自体は、実は1614年からある。すぐ隣にある大蓮寺というお寺の塔頭寺院(たっちゅうじいん)、いわば「サテライト寺院」として創建されたお寺だ。法人としては別の寺院だが、大蓮寺と應典院は一対になっており、大蓮寺を創立の母体とする「パドマ幼稚園」と合わせて、グループ運営を行っている。應典院は、戦時の大阪大空襲で焼け、一度はなくなっていた。1997年に大蓮寺の創建450年記念事業として再建される際に“葬式をしない寺”となったのはなぜだったのか? そのコンセプトや事業内容、光軌さん自身と應典院との来歴、そして恒例の「右下っぽさ」について、伺った。

「現代のお寺は、社会のために何ができるか」
という実験の場

——應典院がどういうコンセプトの場所なのか、なぜ、このユニークなお寺ができたのかというところからお聞きしたいです。

秋田: 應典院が再建されたのは1997年ですが、そもそもの契機は1995年に遡ります。1995年と言えば、多くの日本人にとっては忘れられない年なのではないでしょうか。そう、阪神・淡路大震災やオウム真理教の事件があった年です。生活の基盤が崩れ去る人々がたくさん出たり、物質的な足場だけでなく精神的な足場もなくなってきているといった社会状況に対して、私の父である秋田光彦(大蓮寺・應典院現住職)が、当時大きな問題意識を抱えていたという背景がありました。

——そこがきっかけだったんですね。

秋田: 「では、宗教はどうあるべきなのか」といった問いがポジティブな意味で出てきたこと、そして、NPOの存在が日本社会に登場し、新しい社会的つながりを活かして復興を目指していこうという動きが現れたこと、この2つが住職の中でつながり、新しい應典院はできました。住職は若い時に映画プロデューサーなどをやっていたので、そういった経験も活かしながら、こういう、かなり変わったコンセプトのお寺としての再建があったんです。

——へえぇ~! じゃあ、光軌さんのお父さまであるご住職さんは、若い時に映画関係の仕事をされた後に、住職になられたってことなんですか?

秋田: はい、そうですね。もともと大蓮寺の生まれなので、家を継いだ形です。

法衣に輪袈裟(わげさ)という略式の正装で出迎えてくださった秋田さん。インタビューは應典院内の研修室で行われました。

秋田: 應典院のコンセプトとしては、今は「学び、癒し、楽しみ」っていう言い方をしているんですけど、簡単に言うと、学びが「教育」、癒しが「福祉」、楽しみが「芸術・文化」と考えてもらったらわかりやすいかと思います。現代の私たちは、お寺というと「お葬式」とか「法事」くらいのイメージですよね。でも、かつての日本のお寺では、実は今でいう学校教育のようなことも、社会福祉事業も、芸術・文化に関することもやっていたんです。

——ほーーー。

秋田: 能楽とかは、仏教からすごく影響を受けていて、世阿弥の「阿弥」は、阿弥陀さんの阿弥なんですね。お寺という場所が、能楽や歌舞伎の劇場として、人々が集う場所になっていたんです。演劇のことを「芝居」って言いますけど、あの「芝」は、お寺とか神社の芝のことなんです。集った人々が芝に座って舞台を見上げていたから、今でも演劇のことを「芝居」って呼んだりするんです。

——そうなんですか! 初めて知りました。

秋田: そういう風にして、すごくいろんな役割があったのに、今はそれが全然ないじゃないかということで、じゃあ「葬式をしない」「法事をしない」ということにしたら、お寺に何ができるのだろうか、現代でどういう役割を果たせるのか・・・という割と壮大な実験的な場として、應典院は再建されたんですね。

——へぇー。面白いですね。すごい発想ですね。

應典院の山門(お寺の入口)。コンクリート打ちっぱなしのモダンな建築は、骨仏(こつぶつ)で有名な一心寺の長老であり大阪を代表する建築家でもあった高口恭行氏の手による。

秋田: そうですね。だから、当時、仏教界からはかなりブーイングがあったらしくて…。お寺でイベントをやるとか、今はわりと普通にありますけど、20年前はそんなこと誰もやってなかったので。

——まぁ、そうでしょうねぇ…とても”右(改革)”っぽいですよね(笑)。「不謹慎だ!」みたいな言われ方だったんですかね?

秋田: おそらく、そうですね。「住職の趣味でやってるだけやないか」みたいな厳しい反応があって、「なにくそ!」と思いながらやっていたらしいですね。だいぶ時代の先を行ってたんでしょうね。最初の一年は、何のための場所なのか皆おそるおそるという感じで、誰も寄り付かなかったって聞いています。

——へえー! そうだったんですね! 今の應典院からは想像もつかないですけど。でも、その中で続けていらっしゃったのは、すごい勇気ですね。どうやっていろんな人が来るようになっていったんでしょうか?

秋田: 演劇に関しては、劇団さんが「ここ、使えるらしい・・・」みたいなところから始まって、だんだんとアートの人とか、NPOの人とかが集まってきて、徐々に一定の社会的な知名度がいただけてきたのかなぁと思ってます。当初は職員を雇うお金もないから、今みたいに大きな事務局とかもなかったんですよね。だからもう本当にカオスだったみたいです(笑)。収益がちゃんと安定的になった時点で人を雇い、今は専門的なスタッフがいて、組織としての動きの中で仕事ができるようになっています。

應典院2階の本堂ホール。シンプルで厳かな空間の中に、浄土宗の御本尊である阿弥陀如来が祀られている。(写真提供:應典院)

日々催される多種多様な文化的活動

——施設としては、どれぐらい稼動しているものなんですか?

秋田: 演劇の公演は、少なくとも2週に1回くらいは埋まっていますし、多い月ですと、毎週末公演があるような感じですね。

本堂内に舞台を組んで演劇公演が行われる。写真は劇団「満月動物園」の公演より。(写真提供:應典院)

——本堂ホールが中心になるんですか?

秋田: 演劇の場合は、2階の本堂ホールのご本尊の前に舞台を組みます。この部屋(研修室A)もよくワークショップをしていますね。となりの部屋(研修室B)もあって、小さいワークショップ的な場は、この2つの研修室です。2階のロビー「気づきの広場」で展示やトークイベントをやったりすることも多いです。

應典院寺町倶楽部による恒例の総合芸術文化祭「コモンズフェスタ」。写真は「まわしよみ新聞」のワークショップより。(写真提供:應典院)

——なるほどなるほど。本当にいろんなことをしてはるんですね。

秋田: そうですね。幅が広すぎて・・・良い意味でもそうですし、苦労することもありますけどね

——「苦労すること」は、何ですか?(笑)

秋田: それは、何をしている場所なのかが人々に伝わりづらいというところですね。あるひとつの専門性を追求する、みたいな場所ではないので、どうしても幅ってのは出てくると思うんですよ。もちろん良い意味でそうなんですが、端から見ていると「この場所は一体何をしたいんだ…?」という風にも見えかねない、と思ったりはしますね。だからこそ、私たちがきちんと思いを発信し続けないといけないな、と。

本寺であり、秋田さんのご実家でもある大蓮寺は、應典院のすぐ隣にある。

インターンでファーストコンタクト 震災を経て修行へ

——光軌さんは、その中で、どういう風に應典院に関わり始めたんでしょうか?

秋田: 私が中学生の時に應典院ができて「なんやこれー? なんかすごいのできたー」みたいな感じでしたね(笑)。ありがちですけど、隣に住んでると、近すぎて関心ないんですよ。父がなんか変なことやってんなぁ、くらいで。基本的に私はひたすら横を通り過ぎるだけでした。

——そんなもんなんですね(笑)。それが、どのタイミングで関わっていくことに?

秋田: 2009年に、應典院寺町倶楽部が委託を受けて別の場所でやっていた「築港ARC(ちっこうアーク)」という場所にインターンに行ってみないかと父が言ってくれたんですね。私はその時の仕事にちょっと物足りなさを感じていたので、チャレンジする気持ちで行ってみたところ、当時職員をしていたアサダワタルさんという方にすごく影響を受けまして、「こんな面白いことやってる人がいるんだなぁ」と。前主幹の山口洋典さんとも出会い、應典院でどんな日々が営まれているのかを初めて知ることになりました。それが、私と應典院とのファーストコンタクトでしたね。

——アサダワタルさんのお名前は、大阪の右下界隈(?)では、よく出てますね。それで、そのまま應典院で働くことになったんでしょうか?

秋田: いや、インターンを終えた後も別の仕事をしてましたし、継ぐことはないかなと思っていました。若い頃って、仏教にもあんまり関心なくて、「阿弥陀さんなんておらんし」みたいな感じでしたよ(笑)。でも、私もやっぱり東日本大震災前後が契機になったんですね。震災の直前に友達が急に亡くなったりしたこともあって。その2つの出来事で、「あぁ、ついさっきまでいた人があっけなくいなくなったり、そしてその悲しみと向き合わざるを得なくなる、というようなことって起きるんやなぁ・・・」とすごく実感して、そこからだんだん自分の宗教観が変わっていったとは思いますね。

——そうだったんですか…。

秋田: それまでは「極楽浄土なんかないやん」って思ってたんですけど、「いや、あるかないかってことじゃなくて、ああいう震災みたいなことが起きた時に、やっぱり人々はそれを求めるんだ」ということがわかったというか。それは、理屈じゃなくて、日本人の多くが自分は無宗教だと思ってるけども、でももし大切な人が亡くなったら、どっかで見守ってくれてるんじゃないかって思ったりするわけですよね。そういう感覚ってかなり多くの人が共通して持っているんじゃないかって思い直したりとか。そうすることで、じゃあなぜ仏教の教えがあるのかということも捉え直しができるようになってきたって感じですかね。

秋田: ある時、住職に「修行に行ってみては」と提案されまして、あんまり嫌じゃない自分がいたんですね。「じゃあ、行きます」とすんなりと思えたので、そこから何回か修行に行きました。それでお坊さんになったのが、2014年の12月です。3年くらい前ですね。

——割と最近なんですね。意外でした。

秋田: 應典院に来たのも2014年からなので、まだ4年くらいしか経ってないですね。なので、それ以前の應典院に関しては、私は聞きかじってる程度なんです。2016年からは「主幹」という肩書きでいさせていただいてまして、トップである住職は大蓮寺やパドマ幼稚園にいることが多いので、私が現場の責任者という形でやっています。

——具体的には、現場の責任者ってのはどんなことをするんですか?

秋田: そうですね~、仕事の内容もとても多岐に渡ってるんですけども、最終的ないろんな仕事のラインが集まってくるという感じでしょうか。トップが住職で、職員が3名くらいいて、そこをどうつなぐか、あえてわかりやすく言うと中間管理職みたいな感じの立場ですね(笑)。

——スケジューリングとか、いろんな立場の調整とか、広報関係とかですか・・・?

秋田: そうですね。住職が目指したいビジョンがあって、現場ではそれが難しいこともあったりして、どういう風に折り合わせるかとかを、いろんな仕事の面でやっています。もちろん主幹として理念的な部分の発信もしますし、私は大蓮寺とも兼務しているので、大蓮寺のお葬式や法事ができたらそちらにも行きます。他の職員は、演劇の担当の職員がいたり、助成金に強い職員がいたり、あと幼稚園と掛け持ちしていたりもします。なので、應典院の職員なんだけれども、お昼からはパドマ幼稚園に行くとか。應典院単体というよりは、グループ全体でどういう風に人の動きが作り出せるか、というような感じでやっていますね。

應典院の1階ロビー。各種催し物のチラシや書籍などが置かれ、市民の交流の場になっている。

ここここ編集長の武田緑と同い年(1985年生)だという秋田さん。若々しい中にも、現場の責任者として、そして宗教者としての風格を感じました。しかも、秋田さんがインターンをされていた時の「築港ARC」で、武田がトークイベントに登壇したことがあったというご縁があり、その時のことまで覚えていてくださいました(取材に同行していた武田は、それを聞いて「お恥ずかしい~!」と照れていました)。

後半では、秋田さんが大学院で勉強された臨床哲学、家業を継ぐということ、仏教の右下っぽさなどについて伺いました。お楽しみに!

後編へつづく

インタビュアー:徳田なちこ(取材日:2018年1月23日)

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