今回は、もともと右下的な要素があった福祉という業界のさらに右下の組織にいながら、イレギュラーな動きをしている椎名さんの働き方に迫ります。
福祉業界に転職したのに、人材育成のプロへ
多様な働き方があり、いろんな人がいろんな形で携われるのがこの職場の魅力。
——もともと芸大出身と伺いました。
椎名: 僕は大阪芸術大学の芸術計画出身で、それが僕のバックボーンです。文学、美術、音楽、映像、情報、という5分野の2分野以上を掛け合わせて何か表現するという学科で、授業ではいつも発言を求められた。専門は演劇と教育で、明治から戦前までの児童教育を調べて卒論を書きました。
大学4年のときにゼミの先生に、就職先をテレビ局か演劇か選べと言われて、1999年に大手の劇団に就職したんです。大阪で一番の老舗、学校公演とテレビドラマが中心でしたが、バブル崩壊の流れから関西での番組制作の低下や学校相手の芸術鑑賞も少子化、週休二日制の影響でなかなか営業が苦しくなっていく時代でした。
結局劇団に就職したものの、なかなか成果が出せない。そんなときに、モラトリアムの気分に戻りたいと思って、アルバイト情報誌の『an』見たら、ここの仕事が載っていたんですよ。
——パート募集ですか。
椎名:うちはヘルパーをサポーターという言い方をするんだけど、サポーター募集って書いてあったんです。タイムカードを押さないから、これはいいなと思って。登録しておいて、劇団の仕事が6時に終わり、6時半からこっちでアルバイト。
——じゃあかけもちしながら?
椎名: そう。2年間。僕は当時福祉系の資格を持っていなかったけど、この当時はまだ資格問わず、障がい者の介助に関われた時だったので問題なかった。
柿久保から、あるとき電話がかかってきて、いつからうちでちゃんと働くんだと言われた。いや、一応サラリーマンだったのにね。でも半年待ってもらい2000年の4月から勤め始めた。印象深かったのが、柿久保から「お前、障がい者福祉しなくていいからな」と言われて。
——じゃあ何をするんですか。
椎名: 障がい者の問題だけが社会問題じゃないんです。釜ヶ崎には貧困が普通にあるし、教育の差別もあるし、外国人の差別もあるし、沖縄の差別もある。これが全部つながっているから。少なくとも、障がい者福祉だけ考えていいわけじゃないよ。ということを「お前がやれ」と言われて。
——ちなみに福祉の勉強は、入ってから独学で?
椎名: 独学ですね。結局は、体験させてもらいながら、出会った人たちの関係の中で。福祉の中で右下というよりも、右下に行かざるをえなかったんだよね。他を知らないから。そういう中で僕は演劇をやっていたバックボーンを活かしたかった。自分が話すのが得意ということを、何か使えないかなと思っていて。それが人材育成の講座をやるというのにつながった。
——じゃあそれまで現場でオッケーみたいな感じだったんですか。
椎名: それもあったし、社会的のも2000年に介護保険ができるまで、みんなボランティアというか資格問われずで関われていたのが、制度が出来て、資格がいるようになった。じゃあ自分でヘルパー講座を立ち上げたらいいと思って。それが26〜7歳頃の話。ヘルパー講座を作るのって、演劇のキャスティングと同じなんだよね。
——キャスティング。どういうことですか。
椎名: カリキュラムを作るときに、この授業は○○先生に頼んだらいいよなと先生とやって欲しいことをチョイスして、講座を組み立てる。すると、大阪府の公的な資格講座だからもちろんどこも同じカリキュラムになるけれど、僕のセンスで講師を呼んでくると椎名カラーになる訳ですよ。
——ちなみに講座というのは?
椎名: 地域や所属団体問わず、障がい者の生活に関わりたいという人を集めて、だいたい3日~4日で資格取得できる「重度訪問介護従業者養成研修(24時間支援が必要な重度の障がい者の生活と外出に関わる制度業務に従事できる資格)」を、パーティ・パーティ主催でやります。どこの事業所にも、無資格未経験の人が面接に来ても、うちが講座を随時、開催していることで採用できる。障がい者介助の仕事の入口を担えるように2003年から15年やっているかな。大阪はもちろん京都や和歌山、滋賀など関西全域から受講に来てくれます。
組織を越えてユニットで動く
椎名さんと梅山さんは10年来の仲。
椎名: 2006年に2つ転機があったんです。2000年からスタートした介護保険や2003年からの障がい者福祉の保険制度というのが、2006年に縮小することになった。国は最初から株式会社に参入させて競争原理を働かせようとし、事業単価(1時間介助をした際の売り上げ)を大盤振る舞いしていたが、2006年以降、単価の切り下げや利用の制約、規制などで日本中の福祉が手のひら返されたように汲々としてきたんです。
もうひとつは個人的な転機。31歳のときに結婚して、結婚式をしたこと。それまでなにか大きいことがしたいと思っても、ノウハウがないから口だけだったのが、結婚式をやったことで段取りというものがわかったんです。物ってこういう風に作ったらいいのかと開眼したんです。
——面白いですね。そしたらイベントも自分でできるようになって?
椎名: そう。そんな時期に大阪市がコミュニティとか対話とかをキーワードに小さなシンポジウムやワークショップをやっていく時代に変わろうとしていた。その流れで5万円もらって「地域とアート コミュニティコミュニケーション」というイベントをやって。そのときの人間関係が今の糧になっていますね。
そこから、「このことを一緒にやろう」というユニット単位で動くことが多くなった。少人数のグループだと、組織にとらわれないで、ミッションで集まれる。いくつかのプロジェクトを立ち上げてはいろんな周囲の団体さんから若いスタッフを出してもらい、文化祭や運動会などのプロジェクトをやる。少人数でも集まれば、これだけ福祉とか社会とか自分の団体やかかわる一人ひとりが活性化することができるんだよ、ということを示していきたいと思うようになった。
組織もいいけど悪い部分もあって、僕がフットワーク軽くできるのは自分一人で動くことにパーティ・パーティをはじめとする周囲からさせてもらえているから。例えば来月講座やろう、と思ったら自分の調整で準備できる。でも組織論というか、会議で決定を待ったり、合意形成していくと動きが重たくなる。
だったら動ける人間に集まってもらい、所属に捉われないチームでやったらいいと思っている。他の団体の人に声かけるときにはお互いの関係性や関わる人の経験にもつながらから、協力してもらいやすい。だから、プロジェクトを動かしながらも、自分も含めて育ちあう機会つくりを意識してますけどね。
——なるほど。確かにそうですね。さらにその後また転機があるんですよね?
椎名: 先ほどの福祉制度の流れから2007〜2008年頃から福祉現場に人材が集まりづらくなって、どこの団体も活動がしんどくなってきたというのがあった。また柿久保に、大阪の障がい者の活動の中枢になっている障大連(障害者の自立と完全参加を目指す大阪連絡会議)という障がい者の大阪の連絡会に出向しろと言われて、行くことになった。
これからの僕らの障がい者の生活にかかわる人材育成をどうするか、業界全体の人の募集どうするのという話になって。福祉全体で言うと、日本では介護保険、高齢者福祉が中心なんですよ。それが巨大なマスであれば、僕らインディーズなんですよ。じゃあ僕らの強みは何だろうと考えたときに20代、30代の若い人が多いことに気がついて。インディーズの僕らが声を届かそうと思ったときに、各団体に若い子がいっぱいいるから、若い世代が活躍していることを打ち出そうと。それで「ポジティブキャンペーン」って名打って、状況はネガティブだけど「若い子がんばっていますよ」と世間に訴えるイベントをして、2011年まで続くんです。
——それで大阪の違う業界のNPOとのネットワークなんかもこの頃からできてきたんですよね。
椎名: そうですね。そのときに僕が意識したのが、業界の若い人に関わってもらうということ、障がい者の人も支援者も一緒になってやる、それから外部の障がい者福祉関係ない人間を混ぜ込むこと。例えば梅山くんとか『住み開き』のアサダワタルくん(https://www.kotoami.org/)とか。当時はみんなそれぞれの活動をやり始めた頃で、人とつながりたいということで、毎月誰かがシンポジウムやって、夕方から飲み会みたいな感じで。あれが、生きた人脈になってるね。それも一種のユニットかなと。
「若い、一緒にやる、外部の人と」の3原則で
——それで、東日本大震災が起こると。
椎名: 震災は大きかったですね。このポジティブキャンペーンは2011年度が助成金の最終年度だったんです。じゃあ4月から新たな展開どうしよう。大阪をアジアの障害者福祉のハブとして銘打っていこうと会議をやっていたのが、たまたま2011年の3月11日午後。会議の最中に東日本大震災。そのまま看板が変わって、対策本部になってしまった。
——東北支援の?
椎名: そうですね。午後にやっていた会議は若手中心だったのですが。この次の日には上の世代、阪神淡路大震災で実働した人らが関西中からパーティ・パーティに集まってきて、対策会議が開かれた。なぜうちの事務所だったかといえば大国町というアクセスよい事務所だったから。で僕もたまたまその場にいて。阪神淡路大震災のときに動いたノウハウってあるから、それを活かして関西の障害者支援の力を結集して、東北で被災した障がい者の救援をしていくことに。
——すごいですね。
椎名: でも、そこで僕は「お前は東北に行くな」と言われて、ここにいてできることを考えろと。
で一か月、二か月と時間が経つうちに東北の人たちと関西の人たちとの間で軋轢が生じ始めた。無意識のうちに、こちらのほうが都会だったり福祉制度がすすんでいたりという部分があって、見下す部分があったのかもしれないけど、上から物を言ってしまう。東北の人は東北の人で最初は「ありがとうございます」と言っていたけど、だんだんそれに疑問が出て来た。そのときに「お互いの生活文化」という言葉が僕の中で浮かんで。だから東北の障がい者の生活や支援の経過や文化を関西の僕らは尊重する。でも僕らがなんでこういうことを言っていることを知ってほしい。だからこっちの生活文化を知ってもらうために、大阪に来てもらおうと考えた。
2011年から開催し、2017年で8回目を迎える「ポジティブ生活文化交流祭(http://tohoku-kansai.seesaa.net)」。1年目には5000人を超える来場者が集まり、会場は熱気に包まれたそうだ。
——生活文化って具体的にはどういうことですか?
椎名: 僕ら関西の人間はずっと連綿とした戦後直後からやってきた障がい者福祉の考え方、施設に対する怒りみたいなことも含めて、一人ひとりが過激なことをやりつつ、勝ち取ってきた文化がある。だから、そのベースのうえで物を言っている。でもその代わり、東北の人たちの生活文化も大切にする。福祉がそういう形なのはしょうがないし、これまでのあり方に対してぼくらが文句を言ってもしょうがない。だから、お互いの生活文化を認め合いながら、お互いが行き来することでなにか新しい福祉とか障がい者の人の生活とか僕ら支援も含めた、新しい文化が生まれるんじゃないか。だから、祭りをしようと提案したんです。
——どういう反応でしたか?
椎名: 言い出したのは5月かな。僕の周辺、大阪ではすごい反発でしたよ。みんな生きるか死ぬかのときに、なんで祭りなんだとなったけど、国レベルの大きな助成金で採択されたのでやることになった。でも、9月ぐらいから雰囲気が逆転し出した。こんな生活文化をつなぐお祭りやりますとチラシを東北各地で渡していくと。もし関われるものなら関わりたい、大阪まで行ってみたいという声がぽつりぽつりいろんなところからあがってきて。
——おぉ、嬉しいですね。
椎名: ポジティブキャンペーンの3つのテーマがまた出るんですよ。「若い、一緒にやる、外部の人と」。「若い」は、阪神淡路大震災を知っている大御所たちがバックアップにまわるから、その当時20代、30代の人たちのセンスでやれた。
「一緒に」というのは、みんなが震災当時東北支援に行けたわけじゃないから、いろんな人たちが、東北の人たちに対して声をかける場にしたいな、と思った。東北の人にも来てもらって、東北と関西を一緒にやる。同じ場にいておしゃべりすることでなにか生まれたらいいなって。
「外部」というのは、普段障がい者支援に関わっている人だけじゃなくても東日本大震災の応援をしたいという人にも関わってもらった。
この祭りの効果は、宮城県、福島県、岩手県の障がい者とか、障がい支援の人たちが、震災後初めて一同に集まる機会になったこと。それまでなんとなくネットワークがあったけれど、関係のない大阪だからできたと思う。東北の中の行き来が再開できるきっかけになったんです。
そうやって、大小さまざまなイベントをいくつもしてきました。組織というものは大事なんだけど、それよりも、やりたいテーマで人が集まって事業展開をしていく。多分そこに僕の右下っぽさがあるのかなって。
中庸から弾かれた結果としての右下
——ご自身は右下のどの辺に位置すると思っていますか。
椎名: 本当は僕、中庸でいたいんですよ。
——中庸ってど真ん中ですか?
椎名: ど真ん中。古い物も好きなんでね。伝統というか文脈を大事にしたいんだよ。さっき言った障がい者の歴史じゃないけれど、文脈があったうえで新しいことをするのはオッケーなんだけど。
——へー。気持ち的には真ん中だけど……ってことですか?
椎名: 実際は、競争したいかというと、僕は芸術系だし、体育会系じゃないからね。部活や習い事とかでもっと練習しろ、みたいな大人を見ると苦手で。本人の意思でいいじゃんって。
でも、共生って何なんだろうなって思うと、うーん。思想のある人があんまり好きじゃないんですよ。思想から出られないから。思想がある人が、どっちかというと左下、みたいな感じで。いくら先駆的だとしても概念に捉われちゃってる感じがする。
——そしたら、結局真ん中にいたんだけど。
椎名: 反発しちゃうから弾かれて、けっきょく右下あたりに転倒しているのかなという感じです。
——自分が行きたくてというより、やむをえず。
椎名: 僕の人生って自分で決定したことがひとつもないんですよ。高校は私立の文武両道を目指す新設のマンモス校で、芸術系でまだ成果がないから、進路の先生に芸大に行けと言われたんです。それで勧められたのは、大阪芸大の芸術計画学科。そういうふうに、大学は自分で決めてないし、就職も教授に言われてだし、ここに来たのも、柿久保から電話がかかってきたからだし。
——入った後は柿久保さんの言うままという感じですしね。
椎名: 自分がやりたいと言ったことって形にならないんですよ、必然がないと独りよがりで終わる。で、なにか必然があって、僕が出来ることが何かの役立っているな、っていう感じがうれしいし、ありがたい。
自分のやれることと必然があればこそ、形になると考えているんでね。
——椎名さん、ありがとうございました。
インタビュアー:太田明日香(取材日:2017年11月1日)